西方寺の歴史について

1400年初頭に相浦町洪徳寺住職のご隠居の庵『帰一庵』として、相浦町に誕生したといわれています。
その後、赤崎町に移転をし信仰を集めましたが、戦国時代佐世保城へ転封された赤崎伊予守(開基家)が赤崎町より現在の場所にお寺を移して以来500年、佐世保の中心のお寺として現在にいたります。

明治時代では廃仏棄釈の影響を受け、お寺の存続が危ぶまれましたが、佐世保が日本海軍の重要基地として発展し、炭鉱主藤原家(中興開基家)の莫大な寄進により、法堂・庫裏・仁王門・鐘楼堂と伽藍が整備されていきました。

しかしその後、軍により本堂納骨堂ともに接収され、昭和20年6月の佐世保大空襲により、すべて灰燼に帰してしまいました。
戦後、檀信徒の協力のもと仮本堂での活動を経て、昭和40年代にインド ブッダガヤの大塔をイメージした鉄筋コンクリートの本堂が建築され、続いて昭和50年に地下1階地上二階建ての納骨堂、昭和60年に庫裏・檀信徒会館・平成10年に仁王門が落成いたしました。
平成25年に本堂の耐震工事と同時に天井を張替え大規模な改装を致しました。 現在 照明のLED化、電力デマンド監視機を導入・空調の効率化等 省エネ化を進めています。

庫裏(くり)
本堂
本堂(内部)



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西方寺は曹洞宗の寺院で、旧市内では教法寺と並んで最も古い歴史をもつ寺だといわれている。 寺伝によると、今からおよそ七百年前の建長年間に香林和尚が赤崎岳の北麓に帰一庵を開いたのが初まりで、 その後、戦国時代になって、赤崎伊予が現在地に移し、天翁鳳清和尚を開山に請じ、東陽山西方寺と改称したという。以来おおよそ300年、旧藩時代には寺領15石を賜りこの地に重きをなしてきたが、明治4年の廃仏毀釈で寺号のみをのこして荒廃した。 しかし、佐世保が軍港になると急速に隆昌に赴き、明治末念には参道、山門、鐘楼、本堂、庫裏、位牌堂等々が完成し、大正14年には仁王門も完成して、名実ともに佐世保の名刹としての偉容を誇った。大正8年刊の『佐世保郷土史』によると、信徒3000人。書画、彫刻、古文書などの寺宝数百点があったことが記されている。しかし昭和20年の空襲で、 本堂をはじめ諸堂のことごとくが焼失し今は見ることができない。
芸文堂『させぼ歴史散歩』監修・佐世保市秘書課広報係

佐世保城の白縫姫と蛇島伝説

戦国争乱の時代のことであった。ここ佐世保城主の遠藤但馬に1人の美しいお姫様がいた。あるとき、主筋にあたる相浦の飯盛城主、松浦丹後守親が、 烏帽子岳の狩りの帰りに、突然、この但馬館を訪れた。他ならぬ丹後守さまのご入来とあって、但馬館では酒席を設け、姫に舞いを舞わせてもてなした。

ところがこの時、丹後守は、あでやかな舞姿をみて、一目で恋ををしてしまった。だが姫には既に赤崎伊予という婚約者はあって嫁ぐ日も近かったから、所詮それは叶わぬ恋であった。 だが丹後守はどうしても姫をあきらめることができなかった。恋に目がくらんだ丹後守はついに「但馬謀叛」にことよせて但馬館を急襲し、姫を奪おうとした。

不意をつかれた但馬館は忽ち紅蓮の炎に包まれ、激戦数刻のすえ、ついに落ちた。 けれども目当ての姫の姿はどこを探しても見当たらなかった。 探しあぐねた兵士達が将冠岳の頂上近く来たとき、突然、のぞき岩の穴の中から一匹の大蛇が現れた。 そして兵士たちの驚き慌てるのを尻目に悠々と山を下り、佐世保浦の辺りから海に入って、赤崎館の方に向かってひた泳ぎに泳いでいった。 しかしその姿は途中の小島でふっつりと消え、二度と再び現れなかった。これを見た人々は、てっきり姫の一念が蛇になって、 恋しい伊予のいる赤崎館に向かって泳いで行こうとしたが、力尽きてこの島で死んでしまったものと思った。

こんな事があってから人々はこの島を蛇島と呼ぶようになった。だがそれも明治38年(1905)、この島を利用して大繋船池が作られると、巨大なコンクリート岸壁の下に埋もれて、 この世から姿を消してしまったのである。
親和文庫第10号 ふるさと歴史散歩・佐世保より



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相神浦合戦

二年役 天文12年(西暦1543年)
平戸:松浦家(松浦 興信・隆信) 対 相浦:松浦家(松浦 丹後 守親) 勝敗 ひきわけ(和睦) 有馬尚純(島原)の仲裁

飯盛城攻防戦

永禄6年(西暦1563年)〜平戸思考より抜粋 筆者要約
〜(守勢の)380騎、飯盛の城に立て篭もり待ちかまえた、
この飯盛の城は、高いこと雲のようで、後ろは深い森、東は岩石、
ふもとは河川、西は海である。
さらにその外側には水を湛えた堀を備え、香椎川〜西方寺口までの
要害を厳しく固めていれば容易に攻めるべき手段がない。飯盛城には、北の源蔵、松尾、丸田という強弓の精兵がおり、
棚方山より「北の源蔵直勝」と名乗りを上げ、攻めての真申浦の兵
船にむかって、「その巴の幕の船に立てている槍を射折ってみせよう」
と弓矢を放ったら、槍が折れて船の中に落とされた。

谷ひとつ、海の上2町ほど余り離れているのに・・・と、敵味方とわず
感心していたら、また矢を射った。その筋の矢にたちまち武者2人射伏せられた。
あたかも那須の与市が屋島にて扇を射るのも、このようなものだろうか
と感心しないものはいなかったが、
この件以降、松浦隆信いっそう憤りが深くなり戦が止まらない。

飯盛神社 社殿
飯盛神社より旧飯盛城を望むこの集落界隈が相神浦合戦による飯盛城の西方寺口だそうだ。
神社境内のすみにお寺らしき墓石がかためてお祀りしてあります。
神社からちょっと歩くとこんもりとした林の中に卵塔(お坊さんのお墓)を発見しました。風化して全く読めません。


佐世保城(城山町付近)

崖の上に西方寺は建っている。
『野面積み』の石垣 平戸街道が通っている。


野面積み(のずらづみ)とは

自然石を利用し不規則に積まれた石垣の形、石と石のすき間が広く、敵に登られやすい反面、排水などに優れ非常に崩れにくい。不規則な石積みではあるが、一部の石に重量がかからないよう計算されており、面(ツラ)を合わせ整った勾配を作るなど工夫がみられる。

弓張山系と烏帽子山系の谷間に位置する。
その間は、おおよそ240m、しかも中央を佐世保川が貫く。
松浦家にとって防衛の要衝にあたる(想定は南方から攻めてくる敵、龍造寺家、大村家)
狭い場所を抜けた所に、鼻繰城と佐世保城、
この2つの城はお互い連携し呼応しあって拠点を守る。
佐世保城を攻めるには、鼻繰城が邪魔、
かといって鼻繰城を攻めるには、佐世保城に後背をさらすことになる、
そもそも狭くさらに高低差等あって、大兵力の展開や包囲などが難しい。

地下壕について

戦時中は陸軍の駐屯地として、本堂、位牌堂、庫裏は兵隊であふれていた。
米軍の空襲に対する防御として行政の重要な文書を守るため、またお寺に駐屯する兵隊・軍属、旧八幡小学校の児童の避難場所として、地下壕が掘られました。大部分は崩落し、また土砂災害の危険から西方寺の事業により埋め立てが行われてきました。
水道局裏に現存していた場所も(写真参照)平成28年に大規模な陥没が発生し、国の事業により埋め立て工事が行われました。


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